bot論、あるいは私とキャラクターとTwitterの退屈なつぶやきについて

8月28日は大塚英志氏の誕生日です。おめでとうございます。
それと同時に昨年の8月28日から始めた大塚英志bot(@otsukaeiji__bot)が一周年を迎えた。現在登録されているつぶやきはこのようになっている。初日にからフォローしてくれた方は同じつぶやきばかりで飽きてしまったのではないかと不安になるが、コツコツと登録しているので見捨てないで頂きたい。
今回は大塚英志botを始めてからの感想を書いてみたい。とはいえ、botのつぶやきは登録をおこなえば自動で投稿されるため、大した手間はかかっていない。出来ることはbotにつぶやかせる言葉を書籍から引用してくるだけだ。
大塚英志氏の書籍を読み返し、botに引用する言葉を取捨選択していく。この淡々と繰り返される作業の中で、ぼくの日頃のつぶやきも大塚英志の発言に引っ張られることが多くなった。すかさず入れられるであろう、引用しようと意識しながら読んでいるので当たり前だという指摘は当然正しい。しかし、単純に影響を受けるだけではなく、自分のつぶやきと大塚英志botの発言の境界が崩れる奇妙な感覚があった。ぼくのつぶやきは大塚英志botのつぶやきに近くなり、大塚英志botのつぶやきはぼくのつぶやきに近くなることで、2つは漸近していった。この感覚がどこから来ているのか考えるために、私とキャラクターの関係について振り返ってみたい。

まずは、基本事項を確認する。先ほどから繰り返しているbotとは何だろうか。botは複数の意味を含み、例えばクローラ(Crawler)と呼ばれるようなウェブ上の文書や画像などを周期的に取得し自動的にデータベース化するプログラム*1を指すこともある。しかし、ここではTwitterにおけるbotを指している。はてなキーワードでは以下のようなTwitterbotに関する解説がある。

TwitterBOT
自動でつぶやかれる通常のツイートに加えて、リプライに返信したり、フォローを返してくれるプログラムもある。BOTでもアカウントを見守る中の人がいる場合もある。*2

この引用で重要になるのは、botが自動と手動に分けられることだろう。自動のbotには、中に人がいるかのように振る舞うbotや、実在する人物、アニメ・まんが・ゲームなどのキャラクターなどの発言を引用するbotがある。大塚英志botはこちらに含まれる。手動のbotは実在する人物やキャラクターになりきって、いかにも言いそうなセリフをつぶやくbotが多い。
Twitterは、同様に日本国内で利用されるFacebookmixiといったSNSと比べてキャラクターに関するbotが作られやすい。それはTwitterを説明する際によく使われる「いまどうしてる?(What's Happening?)」という文章からもわかる文脈を伝えることが難しい140字という字数の制約や匿名性を比較的受け入れている環境*3といったTwitterの設計思想(アーキテクチャ)によるところが大きいと考えられる。

botについて簡単な確認が出来たところで、キャラクターの話に入っていく。大塚英志氏の物語論の中でキャラクターが重要な意味を持つことは、『キャラクター小説の作り方』、『キャラクターメーカー』、『手塚治虫が生きていたら電子コミックをどう描いていただろう』など、キャラクターを議論の中心に扱った著書を読んでもらえれば明らかだろう。大塚英志氏はキャラクターという概念を矛盾を抱える存在として捉えている。

アバターというウェブ上のキャラクター概念を手がかりにすると、キャラクターの興味深い要素が二点確認できました。
一つはアバターとは仮想世界における「私」の「化身」であること。
それ故、アバターとは自分自身を見つめる視点、つまり「私」や「内面」という近代的個人とセットになったものの意味であること。
二つめは、アバターは構成要素に還元できて、それは一九二〇年代のアヴァンギャルド芸術の中にあったモダニズム的な思想に出自を持ち、決してウェブ成立以降のポストモダンなものではないこと。
一つめのアバター観は「私」というものの固有性、「私」は「私」以外の何者でもない、という問題に関わってきます。対して二つめの問題は、キャラクターはそれを構成する単純な要素に還元され、一つ一つのキャラクターはその機械的な順列組み合わせにすぎない、という考え方を可能にします。*4

キャラクターとは、自分自身を見つめる「内面」を持ちながら、構成要素を機械的な順列組み合わせで決められるものである。この概念は、別の著書で「アトムの命題」として説明されているものに近い。そこでは、内面を持つに至った経緯を、手塚治虫を援用しながら一冊の書籍になるほど詳細に解説していることもある。このことからも、大塚英志氏にとってキャラクターの概念が重要であることが確認できる。

ここでbotとキャラクターを繋げていきたい。アバターというウェブにあふれる要素を元にキャラクターを説明したことからもわかるように、ウェブとキャラクターは相性がいい。再び、大塚英志氏の議論を引用しながら確認していきたい。

そもそもこの「私」を一人称とする文章はいくらでも「アバターとしての私」を立ち上げることができます。ブログの中であなたたちが見せているつもりの「本当の私」も、反対に「2ちゃんねる」の「名無しさん」たち一人一人の当人は書き込みの過激さとは正反対の人であったりする事態を含め、ウェブ上にあるのはどれも「アバターとしての私」「キャラクターとしての私」という現象のようにぼくには思えます。*5

先に結論を言ってしまえば、大塚英志botは「キャラクターとしての私」である。これについて順を追って説明していく。
先ほど、botには自動のbotと手動のbotがあることを説明した。引用部分を読むと通常のTwitterアカウントが「アバターとしての私」、手動のbotが「キャラクターとしての私」にあたることがわかる*6
自動のbotはどちらにあてはまるのか、それともどちらにもあてはまらないのだろうか。自動のbotの中でも引用をつぶやくbotは何でも好きな事をつぶやけるわけではない。まんが・アニメのキャラクターのbotであれば引用箇所も限られるため「アバターとしての私」「キャラクターとしての私」のどちらでもなく、単に劇中のセリフをランダムにつぶやくだけになる。大塚英志botも一見同じように思えるが、そこには違いがある。大塚英志氏の著書は数多くあり、ある程度引用する箇所に選択の余地がある。そして、大塚英志botに引用する箇所は「私」が大塚英志氏らしいと思ったという極めて偏った基準で決めている。つまり、大塚英志bot大塚英志氏の発言を引用しているが、理想的なキャラクターとして組み替えた「大塚英志というキャラクターとしての私」にしかならないのである。

冒頭に示した疑問である「自分のつぶやきと大塚英志botの発言の境界が崩れる奇妙な感覚」とは、大塚英志氏の著書を読んで影響を受けた「アバターとしての私」と、大塚英志氏の著書を分解し理想的なキャラクターとして組み替えた「大塚英志というキャラクターとしての私」の距離が近づいてきたことだと結論づけることができる。
大塚英志氏が「アバターとしての私」と「キャラクターとしての私」に差がない、つまり「アバターとしての私」もまた「キャラクター」であるとして、それらをコントロールする物語論を展開しているを考えれば、当然の結論と言えるのかも知れない。
最後に何故か大塚英志氏に大塚英志botの存在を気づかれてしまい、ラジオでつっこまれた時の発言を振り返ることでこの文章の締めとしたい*7大塚英志氏は、自分と関係ないものなのでかってにやってくれと言った後で、たまに言ってないことを書くと面白いのではないかと冗談半分で言っている。「大塚英志というキャラクター」が自分の中で完成したのなら、それも面白いのかもしれない。
ぼくはやらないけど。

*1:Wikipedia クローラ」<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9>(2011/08/21アクセス)

*2:はてなキーワード BOT」<http://d.hatena.ne.jp/keyword/BOT>(2011/08/21アクセス)

*3:Facebook利用者の約8割がプロフィールで実名を公開、mixiTwitterでは約2割」<http://mmd.up-date.ne.jp/news/detail.php?news_id=784>(2011/08/21アクセス)

*4:大塚英志、『ストーリーメーカー』、アスキー新書、P043

*5:大塚英志、『ストーリーメーカー』、アスキー新書、P043

*6:通常のTwitterアカウントにも自覚的に「キャラクターとしての私」として振舞っている人はいる。

*7:「眠らない大学 2010年10月22日放送分バックナンバー」<http://radio.kobe-du.ac.jp/?p=2490>(2011/08/28アクセス)